7.鎌倉仏教 ~禅宗について~

仏教
坐禅

わたしのいち推しの仏教が臨済宗です。いまやマインドルフネスとして欧米から逆輸入の様子もある禅宗ですが、なぜ欧米人は禅宗に惹かれるのか?アップルの創業者・スティーブ ジョブズが禅宗に傾倒していたことは有名なはなしです。
20世紀は科学技術が劇的に進化しました。20世紀を生きた我々は科学の洗礼を受けたことで、迷信から自由になったばかりでなく、ニーチェなどは「神は死んだ」とまで宣告した時代です。宗教離れは世代を追うごとに顕著になってきました。そんな時代にハイライトを浴びているのが「禅宗」です。

禅宗は実はぜんぜん宗教臭くありません。念仏系宗派が浄土という死後の極楽世界を大前提にしていることと対照的に、未来も過去も問題にしません。
「今、現在、この瞬間に生きる」ことを重視します。一方で現代病と言われるストレスの正体は、「過去に起こった変えようのない事実や、起こるか起こらないか分からない心配事」を前頭前野でグルグル回しているうちに、記憶の整理を司る海馬が活性化できずに、脳が疲弊する状態です。

そんな人類の足を引っ張る過去や未来に思い悩む脳のクセは、ホモサピエンスが進化の過程で獲得した特徴でもあります。原始時代には、過去に獣に襲われた経験や、これから足を踏み入れるところで起こるかもしれない不安というものが生存に有利に働きました。
もう人類は狩りの対象にされるようなか弱い存在ではありません。過去の失敗にくよくよ悩むことも、起こるかどうか定かでないことで不安を増幅する必要もありません。

しくみが分かると物事の見方も変わります。確かなことは、いまこの瞬間に自分は生きているということです。
坐禅をして呼吸に意識を集中する。筋肉や骨格など身体の声に耳を傾ける。湧いては消えていく想いを手にしては、それを手放していく、そうやって意識を研ぎ澄ましていくことが坐禅の意味です。
そうすると養老孟司が「現代は脳化社会である」と指摘していたように自分の身体のことをすっかり忘れていたことに気づきます。想念ではなく、確実に「ある」ものに意識を向けるわけです。

2021年11月に宝泉寺という亀岡にある臨済宗のお寺で3泊4日の修行体験に行きました。吉野和尚の法話にありましたが、本来の禅宗はマインドルフネスのように、「こうすればああなる」という効果を期待してやるものではない、それは現世利益であると批判されておられました。
ただ「座る」「瞑想する」という単純な行為を突き詰めていくと、つぎの言葉が腹に収まってくるような気がします。

一切皆苦
仏教は人を”苦”から救う宗教です。現状の認識がすべて”苦”であり、あって当然から始めます。

諸行無常
物理学の知見によれば、一瞬たりとも物を固定することはできません。変わらないように見えていても、原子や分子レベル、元素の周りをランダムに回っている電子など分かっているだけの構成要素から考えてみても、たしかに一瞬たりとも固定されるものは宇宙に存在しません
「すべてのものごとは常に変化して留まることがない」ことが分かります。

諸法無我
この世に存在するものすべては、相互の関係性によってのみ存在する。原因となり、結果となり、そういった因果関係や、相互に影響を及ぼし合う縁起があって説明されるものです。
これも物理学の視点から見た方がわかりやすいと思います。水の分子はH2Oですが、2つの水素原子Hとひとつの酸素原子が相互に影響されてたまたま今はその形になっているだけです。「水」ひとつ取ってみてもこのように不安定なものです。さらに拡大していくと原子には原子核がありその中には原子の種類によって異なる数の陽子と中性子があり、その原子核の周りを電子が飛び回っています。
どうでしょう。盤石だと思っていた世界が一瞬たりとも固定することはできません。
物理学の視点からわかり易く説明しましたが、そんな真理を古代インド人はどうやって思い至ったのでしょうか。すごいことです。

禅宗の歴史
中国禅宗の始祖は5~6世紀のの時代にインドから渡ったボディーダルマ(菩提達磨)です。
伝えたお寺が嵩山少林寺。中国拳法である”少林拳”のお寺です。
紛らわしいですが、”少林寺拳法”はそれとは別物です。
少林寺拳法は馬賊を夢見て大陸に渡った創始者・宋道臣(本名:中野理男 1911-1980)が、敗戦で荒廃した国土、人心を立て直すべく、精神教育に自身が身につけた東洋の武術・武道を新たに体系づけたものです。夢で見た菩提達磨の背中にインスピレーションを得て、そのゆかりのお寺の名前を採用したようです。
資格取得者には師家(しけ)により印可状(いんかじょう)が発行されるところなぞはまさに臨済宗です。

ダルマさんといえば、選挙や試験の願掛けに目を入れますね。「いまこの瞬間を生きる」マインドフルネスの禅宗の始祖と「願掛け」には違和感があります。調べてみると次のような経緯がありました。
だるまのルーツは中国の玩具で、「酒胡子」という木製のコマを回して倒れた方向に座って居る人が杯を受けるという酒席の遊びに使われていました。
明代になると、「酒胡子」に代わって「不倒翁(ふとうおう)」という張り子の玩具が登場します。
それが室町時代に伝わると、「起き上がり小法師(こぼし)」に変化しました。
やがて江戸時代になると、赤い衣をまとって座禅する達磨大師に見立てられ「起き上がり達磨」が誕生しました。
達磨が偉いお坊さんであったこと、倒れてもすぐに起き上がることから、「七転び八起き」で縁起がよりとされ、ダルマさんは縁起物として定着していきました。直接の起源は江戸時代、近世だったのですね。
選挙でおなじみのダルマさんに目をいれる習慣ですが、江戸時代に養蚕農家で始まったそうです。

仏教は日本語のなかにも習俗・習慣のなかにも私たちの生活のなかにすっかり溶け込んで不可分の存在です。それがひとつでも分かるとおもしろいですね。楽しいです。

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