4. 日本仏教史概観 平城京から平安京へ

仏教

古墳時代末期に日本に入ってきて、飛鳥・奈良時代には当時の先端科学と一緒に研究され広がっていった奈良仏教でした。聖徳太子は仏典の注釈書である三経義疏(法華義疏、勝鬘経義疏、維摩経義疏)を著すなど仏教の興隆に尽力しました。大阪の四天王寺など今もなお太子信仰が残っています。
そして鎮護国家の仏教と云われるように、奈良の朝廷においても仏教(南都六宗)は重要な役割を担っていました。
たとえば、南都六宗のひとつ興福寺は朝廷の有力貴族である藤原氏の氏寺であり、氏神を祀る春日大社とともに寺領・神領を広くもっていました。寺院と行っても広大な敷地に、寺領からの年貢の徴収、輸送・保管などの経済官僚も必要ですし、富が集まれば警備の陣容も自前でそろえなければなりません。
いわば、市役所の徴税課をもち、医学部も併設する大学組織であり、しかも自前の武装警備員も用意していたのが当時の南都七大寺ではないでしょうか。僧侶はただ仏典を研究して、読経しているだけではないのです。
文化、経済のみならず僧侶は漢字という外国語の読み書きもできたので、国の外交の実務面も握っていました。こうして奈良の朝廷に僧侶が食い込んできたのです。

奈良時代半ばに宇佐八幡宮神託事件(769年)が起こりました。孝謙天皇が寵愛した道鏡に皇位を譲ろうとした事件です。道鏡は弓削氏(河内国若江郡・現八尾市)の出で法相宗の僧です。将門、尊氏とともに日本三悪人と称されることもあります。
これはひとつの突出した事件でしたが、政治が仏教を頼れば、仏教は神仏を盾に政治に横やりを入れるようになります。平安時代も白河法皇の三不如意に表されるように、仏教勢力と政治の関係は今からは想像もできないくらいに密接な関係が続きました。

そんな南都六宗を抑えるためにはどうしたらよいでしょうか。話し合い?経済の問題に介入してきた僧侶が中国語や梵字などインドの言葉を使って論争をふっかけられても困りますよね。朝廷の言い分を強制的に通す?奈良時代の幕開けとともに中央集権国家をデザインしたところで、軍事や治安維持の組織を背景にした権威はまだ未熟であったうえに、僧侶の怒りをかうと仏罰を当てられかねません。
そこで朝廷の下した結論は「南都六宗から逃げる」でした。遷都です。

藤原京から平城京へは平地を北上するだけでした。その平城京(1次:710年。現在復元されている大極殿はこの第1次平城京ものも)のあと、北東へ7~8kmほどの木津側の北側、山背恭仁京(740年)、さらにその北東20kmほどの柴香楽宮(近江甲賀郡:744年)、難波宮(大阪城の南側:744年)を経て第2次平城京(745年。第1次大極殿から南南東に300mほどずれる)という具合にわずか84年間の奈良時代だけでもこれだけ遷都しました。
遷都の理由は有力豪族である藤原氏から逃げるなどです。仏教勢力ともそうですが政権争いは負けた側が怨霊化するなど、始末が悪いのでコストは掛かりますが逃げの一手も現実的な手段です。
また当時のはやり病、天然痘などは見た目にも症状が分かります。現代人はその原因もしくみも理解できますが当時のことです、この世の物ではない力が人を取り殺していると受け取られていたのでしょう。それなら戦いようも無いわけで、これはもう逃げるしかありません。

平城京からの遷都を桓武天皇が命じたのは長岡京です。遷都の際には建築資材はできるだけ再利用しますから、今度も解体・輸送されます。平城京から北北東7kmほどに木津川があります。
木津川は北に流れ巨大な巨椋池に注ぎ込みますが、石清水八幡宮のあたりで、桂川、宇治川、木津川が合流して淀川になります。その合流点のあたりに長岡京が作られました。
現在、長岡京市は長岡京を名乗っていますが、往時のエリアの多くは南隣の向日市になります。
名乗った者勝ちです。

川の話しを続けます。大阪は摂津・河内・和泉国の旧域と重なり摂河泉と称されますが、それぞれのエリアの文化には違いがあります。それにはまず、淀川の存在が大きいです。江戸時代などでは京都伏見-大阪八軒家浜を夜行船が行き交うなど上流・下流の行き来はあるものの、幅が広く現代でも高槻・茨木市といった摂津側と、八幡・枚方・寝屋川といった河内側とはたった3本の橋しかありません。
歴史的にも生活圏が淀川を挟んで南北で完結してきたためではないかとにらんでいます。
昔からの住宅街を歩くと、河内国、和泉国エリアでは、町内のお知らせ掲示板に不祝儀の名前と出した金額が記されていたりします。摂津国エリアでは見たことがありません。
また、遷都の理由のひとつに物流ルート上の問題もあります。
難波津が土砂の堆積で大型船が着岸できなくなると、難波津-大和国のルートに代わって、神崎川の工事の結果、淀川-山城国-琵琶湖・近江ルートが成立したことも見逃せません。

こうして、桓武天皇のときに力を持ちすぎた藤原氏など有力貴族や、その息の掛かった奈良の仏教勢力を移転させず、そのまま置いていく作戦に出ました。当然旧勢力は遷都に反対します。既得権益が脅かされるわけですから、現代でも見聞きしますね。そこで起こったのが藤原種継暗殺事件(785年)です。
遷都の決定の翌年、建物の移転工事など槌音も響くなか、遷都の責任者が反対派によって暗殺されたのです。下手人として大伴氏、藤原氏、紀氏など多くの貴族が捕まりました。事件直前に死去した大伴家持(万葉集の撰者)も首謀者として官籍剥奪処分になっています。さらに桓武天皇の皇太弟であった早良親王が事件に関与したとされて廃太子、配流の途中で憤死したことで怨霊になりましたが、野村萬斎主演の映画「陰陽師」でよく描かれています。

こうして長岡京は結局10年の間しか続きませんでした。鳴くよ(794年)ウグイス平安京の10年前が長岡京遷都という覚え方です。

平安京遷都直後、洛中にあるお寺は二寺のみだった
丸太町七本松通りにある京都市平安京創生館には、平安京遷都初期の巨大なジオラマがあります。(冒頭の写真)朱雀大路の南端を挟んで、東寺、西寺の2寺があるのみで、じつは洛中にこれ以外の寺は作らせなかったのです。京都観光といえば、寺巡り、これでもかというほど由緒ある寺院がある京都ですが、遷都直後のこのお寺の扱いを見れば、桓武天皇がいかに南都六宗に手を焼いていたのかが分かるでしょう。

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