1.仏教が面白い ~ はじめに ~

仏教

このブログでは早期退職をテーマにしてきました。
サラリーマンでしたから、収入だけに重きを置けば定年まで給料を得て、再雇用で引き続き収入を得ることがベストです。ところが、生きているとさまざまな「苦」に遭遇するものです。
それをどう咀嚼して飲み下すのか、ヒントを与えてくれるのが仏教だと思います。
なぜならお釈迦様が開いた本来の仏教はこの「苦」をどうするのかを説いたものだからです。

「よりよく生きる」もサブテーマとして掲げていますが、人生につきものの「苦」をうまく対処することもその目的に沿っていると考えます。
こうした原始仏教の特徴は、天国・地獄といったあの世を前提としたキリスト教、イスラム教などの一神教との大きな違いのひとつです。
もちろん仏教にも極楽、地獄が登場しますが、インド発中国経由である北伝仏教には鬼神信仰などの中国人の民俗宗教ともいえる道教の影響が色濃く残っているからでしょう。
また、興福寺の宝物館には私のお気に入りの阿修羅像、迦楼羅像(元はガルーダ)などインドのヒンズー教の要素も入っています。
こうして我々がひとくちに「仏教」といっているものは、さまざまな国の文化や、歴史的な変遷などが融合したとても複雑なものです。もはや一緒くたになってしまって訳が分かりません。

しかし、すくなくとも仏教諸宗派についての基本的な違いを知ることで、ずいぶんと頭の中が整理されてきます。お祀りする本尊によって、大日如来だから真言宗かとか、金堂よりも講堂が伽藍配置の中心だから禅宗系だなという具合に、寺社巡りではその特徴を発見する面白さも加わります。
日本人として、仏教について知ることは日本文化に対する基礎的教養とすら思っています。
ここでは、そこに思い至るまでの仏教について学んだことをあらためて整理したいと思います。

私はどの宗派にも属していないただの仏教ファンですので、宗派のダメだしをしてもまだ知識が至らないだけのことかもしれません。宗派のプロ組織からお叱りや攻撃を受けるかもしれないと思いましたが、ぜんぜん目立たず社会的な影響力も皆無のブログなので、思ったまま書かせてもらいます。


仏教を学ぼうと思った当初の動機
・親の葬儀を出すときにお寺さんにお布施をいくら包めるか?
 その読経、儀式にいくらの価値があると認めるのかによって、包む方としてはお布施の額も違ってきます。しかし、その価値を認めない人も増えてきた昨今では、お寺さん抜きの直葬も増えてきました。
 「葬式仏教」ってなに?、どうしてそうなったの?について理解を進めました。
人口のボリュームゾーンである団塊の世代が寿命を迎えるころに、日本は多死社会を迎えると言われています。どおりで葬儀社のCMが多いはずです。葬儀に依存しているお寺は、そのビジネスモデルを変えないとポスト多死社会には多くが潰れるのではと、すごく心配しています。お寺が消えた街の風景は殺伐すぎます。

・自分をどこに葬る?
 家ごとに宗派がありますが、たかだか江戸時代の寺請制度が21世紀までなんとなく残っているというだけではないでしょうか。その”家”というのも、かつては人口の8割以上が農民だったころには、経済的な基礎は農地ですからそれを受け継いできた先祖崇拝ともすんなり一致しました。
いっぽう戦後このかた核家族化が拡大してきました。地縁血縁も薄くなったいま、墓じまいが話題になるくらいです。
こうして時代背景や環境が大きく変化した現代、家族といっても宗教はそれぞれが選択してもよいのではと思います。仏教を取っても、その諸宗派はもはや別々の宗教と言っていいくらい異なります。自分が違和感を覚えたら、実家の檀那寺の宗派に必ずしも合わせなくてもよいのではないでしょうか。
我が家では家内は実家の墓希望、私は妙心寺あたりの塔頭寺院と仲良くなっておき、適当なところに合葬希望、と漠然と考えていますが、戒名もお墓もたいして重要ではないと思っています。

仏教を学んでよかったこと
・お寺巡りがさらに面白くなった
 京都はじめ関西には多くのお寺があります。漫然と巡ってお寺の雰囲気を楽しむだけなら、インバンドの観光客と五十歩百歩ではないかと思います。知っていればさらに楽しめるのにもったいない。
たとえば、臨済宗寺院というテーマでお寺を巡ると、美しく整えられた建築と庭園を鑑賞できます。
東山の紅葉の時期にはメジャーどころ以外の臨済宗寺院が穴場です。
真言宗寺院では仏像にフォーカスします。東寺の立体曼荼羅はすごい迫力です。大日如来が宇宙の中心で釈迦如来像、阿弥陀如来像が周辺に位置しています。宇宙を説いた金剛界曼荼羅の立体バージョンです。真言宗はこのように宇宙を捉えていたのかと想像を巡らしながら仏像を鑑賞します。
奈良は学術的なアプローチをした仏教で、葬式仏教とは無縁です。とくに興福寺の法相宗が研究対象とした「唯識論」は、西洋人がフロイトが出てくるまで知らなかった「無意識」について詳細な体系を展開したものです。恐るべしインド哲学。

・マインドフルネスに出会えた
 いまや欧米からの逆輸入のかたちで広がりつつあるマインドフルネスです。私はこれをベトナムの臨済宗の僧であるティクナットハン師を”NHK教育 心の時代”でたまたま見て惹きつけられました。
 コップの水を差しながら平易な英語で語りかけます。水は身体に入って呼気や汗や尿などとして外界に出て行き、水蒸気となり雲となり雨となり水となり、また自分の身体を構成する要素になるかもしれません。外界と自分の身体は不可分の関係にあることを見事に説いていました。

・仏教への偏見が崇敬の念に変わった
 「坊主まるもうけ」など僧侶を揶揄することばには事欠きません。明治の廃仏毀釈ももっと知りたいテーマです。仏教についてい興味を持つ前にはそうした偏見を持っていました。
街道歩きでも清廉な神社には銀色の硬貨を、お寺は儲かっているので銅貨をという具合です。

坊さんといえば墨染めの衣に剃髪、お寺もどの宗派でも一定の寺院建築様式に基づいています。
どれも同じようなお坊さん、お寺と思いがちです。しかし、中身は宗派によってまったく言っていいくらいに違います。このわかりにくさが誤解の元だったと思います。
仏教諸宗派は、それぞれ別の宗教です。「仏教」とひとくくりにはできないと思います。

次回は、仏教の大きなくくりが分かるように、まずは日本における仏教の歴史的な推移をまとめてみようと思います。

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